ジャーナリストの佐々木俊尚さんの著作「キュレーションの時代」でにわかに注目を浴びている「キュレーション」について朝起き抜けに思いついたので覚え書きのブログです。
ところで、キュレーションの定義は佐々木俊尚さんによるものを拝借すれば「キュレーションは情報を収集し、選別し、意味づけを与えて、それをみんなと共有すること」とあります。
要するに、溢れかえる情報の中から、なんらかの目的に基づいて、情報を集めて整理し、コメントなどを加え、それを自由に皆さんで共有してもらうことでしょうか。
さて、冒頭のタイトルで自分なりにキュレーションが「私が集めた情報です」という言葉に集約されるのかと言うことですが、この言葉を2つに分けて考えてみます。
その1つは、「私が」ということです。キュレーションを行う場合に、キュレーターとしての「私」は、まずどこの誰なのか、そしてその人が集めてコメントづけられた情報が果たして信頼に足るものなのかと言うことです。きちんとしたバックグラウンドがあり、Trust すなわち信頼できるのかと言うことです。
分かりやすく例えて言えば、袋物職人が経済学の問題について情報を集めてキュレーションを行い、もっともらしいコメントをつけても、おそらく誰も真剣に読んでくれないでしょうし、アクセスもほとんどないに違いありません。
ところが、もし袋物職人が30年来の釣りの名人で、その名を仲間うちで知られ、全国の穴場に精通しその場所の紹介やら、独自の仕掛けを公開したり、釣り方のコツやよもやま話を披露したキュレーションサイトを公開したらどうでしょうか?おそらく釣りファンの間で口コミで広まり、アクセスが殺到するに違いありません。もちろん共有は自由です。以上、これが「私」に関する部分です。
もう1つは「集めた情報です」についてです。それは、集めた情報がある目的、意味に基づいて集められることです。自らが得意とする分野を、ある種情熱を持って集められた情報は、時として、情報同士が相互に関連し合ったり、共有されて他の情報が重なって、新たな意味も浮かび上がってくることもあるでしょう。
要するに、情熱を傾けるほどに好きなこと、これなら任せて下さいといえる自信のある分野は必ず誰にでもあるでしょう。そうしたことを踏まえて「私が集めた情報です、どうぞご覧下さい。」と言えるなら、きっと多くの人から支持されるキュレーションサイトが作れるのではないでしょうか。
追記:思いついたことをブログに書きつけるのはなかなか難しいものです。なおかつ短時間で書きとめるのですから未完成の部分も当然あります。ご意見などあればお寄せいただけると幸いです。なお、こちらのサイトはどなたの作かわかりませんが、優れたキュレーションサイトとして推奨したいと思います。
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