司馬遼太郎さんのエッセイである「司馬遼太郎が考えたこと」の中に「文化と文明について」という項があります。
司馬先生には失礼ながら、気に入ったところを少々引用させていただきます。それは次のようなくだりです。
「文明とはなにかを考える場合、ローマや中国文明などより、遊牧という単純な文明のほうがわかりやすい。文明はまず民族(文化)を超えていなければならない。遊牧文明の場合、そのやり方と道具をそろえさえすれば、たれでも参加できる(普遍化する)のである。簡単なとりきめだけで、万人が参加できて、しかも便利であるものを文明と考えたい。」
さらに次のくだりで「しかし、文明はかならず衰える。いったんうらぶれてしまえば、普遍性をうしない、後退して特異なもの(文化のこと)になってしまう。」
少々の引用で、すべてがわかるわけではないでしょうが、どうやら文明を普遍性のあるものとし、文化を特異なものと、分けて考えていらっしゃるようです。
例証として、特異であったジーンズが世界に広まり普遍化したので、文明材として取り扱っておられるようです。
さらには「文明は精度を追求するが、文化はこくを追求する。」とあります。こうなると、難解ですが、なんとなくおぼろげにわかりそうな規定です。
そうなると、携帯電話やインターネット、自動車は普遍性が高いので文明で、日本の能や狂言や歌舞伎は特異なもの、すなわち文化ということになります。
そして、文明はかならず衰える。ので、特異なものである文化がこの先際立ってくるのではないでしょうか。
この先は袋物職人の仮説ですが、だから文明は普遍化したがゆえに、飽きが来ないようにせっせせっせと常に改良が進められていき、反対に文化は常に変わらずに生き続ける。そんな感じではないでしょうか。
コメント