テレビ番組の中で、話している人は「見れる」「食べれる」と言っているのに、下の字幕には「見られる」「食べられる」と訂正して表示されるいわゆる「ら抜き言葉」ですが、グーグルで検索して出てきたウィキの「日本語の乱れ」という項目の中で、それについて興味ある発見をしました。
それは、正しい用法とまでは言えないまでも、現代人の誤用法でもなんでもなく、戦前でも結構使われていたという指摘です。
例として、小林多喜二、太宰治両巨頭の「ら抜き言葉」の実際の文例が紹介されていることでも分かります。
「られる」は可能を表す活用語尾のようで、例えば、見られる→見ることが出来る、食べられる→食べることが出来る、来られる→来ることが出来る、と考えられますが、「れる」を付けることで意味が通る昨今、言葉は時代と共に変化して来た事実とも考え合わせると、そのまま容認してもいいのかも知れません。
言葉の重要な点は、コミュニケーションの観点から、分かりやすく、大勢の人に間違いなく事実が伝わるようでなくてはいけないことです。それが守られれば別段問題ではないでしょう。
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