今、並行して何冊か読んでいますが、今日ちらっとのぞいた「浅草」の赤い本の方に浅草公園の成り立ちが出ていて、なるほどと思いました。
時の明治新政府は、徳川政権で続いていた神仏習合を廃止して、神仏分離令を発令しました。
一方で、西洋の公園を見聞してきた大久保利通は、東京に公園の必要性を感じ、5ヶ所の「公園地」を指定しました。
その5ヶ所とは、浅草寺、上野寛永寺、芝増上寺、飛鳥山、富岡八幡で、そのうちの前から3つのお寺は、徳川政権と関係が深かったので、その威光を消し去る目的も含まれていたようです。
そして特に、公園地に指定された浅草寺は、西洋式の行政区分を取り入れて、観音堂を第1区、仲見世を第2区、伝法院付近を第3区、大池(後のひょうたん池)と奥山の一部を第4区、花やしきと残りの奥山を第5区、そして江戸時代、浅草寺の火除け地として設けられていた水田、畑の地域であった西側の「浅草田圃 あさくさたんぼ」が埋め立てられて第6区と命名されたそうです。(なお、もちろん現在では浅草六区の名称が残るのみで、こうした統制はありません)
ところで現在、浅草寺西側には、その6区を含む浅草公園町会があります。土地の人が、よく公園地、公園地というのをよく耳にしていましたが、これで謎が解けました。
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